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キロクのブログ

変わりゆく風景やものを単なる私的思い入れで記録中。意外とのんびりしてられない。

[台湾]猫鼻頭からバシー海峡をのぞむ、戦没者のこと(屏東縣・恒春鎮)

台湾の最南端エリア・墾丁に行ったときに立ち寄った猫鼻頭(マオビートウ)。ここからバシー海峡の方向を眺めてとき、思わず合掌。この美しい海に多くの日本人が海底に沈んでしまったことを、今の日本人はどれだけ知っているだろう。

実を言うと、ちゃんと知ったのは台湾にご縁ができてから。聞いたことがあるような無いような、その程度の記憶だから、知らなかったという方が正しいと思ってる。

太平洋戦争の末期、戦局はかなり厳しくなり、日本軍は残り少ない兵力や物資をフィリピンへ向けて送り込み、起死回生を図っていた。

 バシー海峡は今も昔も日本にとって重要な航路だが、昭和19年頃、既に制海権や制空権を米軍に抑えられ、日本軍にとっては危険極まりない海域となっていた。日本の艦船は次々と沈められ、その数は200隻を超え、戦死した日本兵は25万人以上に上ると言われている。

猫鼻頭のこの岩場に、連日にわたって日本兵の遺体が漂着、台湾の方々が遺体を引き揚げ、葬ってくださったという。遺体は損傷も大きく、暑さで腐敗も早かったと思うし、この険しい地形。重労働だったに違いない。

その場所は「潮音寺」。
普段は入ることはできず、事前に連絡するか、慰霊祭などを行うときなどのみ。苦しかっただろうし、日本に帰りたかっただろうと思います。海の底では手が届かない、戦争って本当に残酷です。

 

【追記:2015年8月】
戦後70年、バシー海峡の戦没者慰霊祭が行われました。それに伴い、潮音寺と、私財を投げ打って潮音時を建立した中嶋秀次さんの記事が掲載されていました。

潮音寺は、昭和56(1981)年8月19日、バシー海峡で九死に一生を得た元独立歩兵第13連隊通信兵、中嶋秀次(ひでじ)(平成25年、92歳で死去)の強い思いによって建立された。
昭和19年8月、中嶋が乗船していた「玉津丸」と約30隻の船団はこの海域で米潜水艦の急襲に遭う。沈没までわずか5、6分。玉津丸に乗っていた仲間のほとんどがこのとき戦死した。
中嶋の「地獄」はそこから始まる。何とか非常用のイカダにしがみついたが、非常用の水、食糧はわずかしかない。仲間が1人、2人と息絶えてゆく。「正気じゃなくなるんです。『水をくれ』と狂ったようにわめいていたかと思うと突然、静かになる。見に行くともう、死んでいた」
漂流12日目の夕方、奇跡が起きた。すでに意識がもうろうとした中嶋は、水平線の向こうに友軍の船を見つける。玉津丸の約5千人のうち、助かったのは中嶋を含め、たった8人だけだった…。
(引用:産経ニュース、2015年8月2日)

 

心より、ご冥福をお祈りいたします。